“子供たちには早い年齢から、
批判的、懐疑的思考を教えられるべきではないだろうか?
私たちはみな、
疑い、もっともらしさを天秤に掛け、証拠を要求することを
教えられるべきではないだろうか?”
-リチャード・ドーキンス自伝本より-
私が本当に尊敬する4人の人物のうちの一人が
『リチャード・ドーキンス』である。
(残りの3人はまたどこかで)
冒頭の文はそのまま彼の自伝本から引用した。
私がこの本のこの部分を始めて読んだ時に感じた感想は、
「なるほど。確かに!」ではなく、
「そうそう。その通り!」だった。
ここで書いていくのは、
これまで批判的、懐疑的な思考を貫いてきた
私の哲学である。
▢ 子供時代に納得できなかった謎
『夜に爪を切ってはいけない!』
『新しい靴は午後におろしてはダメ!』
母親に言われたこれらの伝統?迷信?は
子供ながらに納得していなかったと
今でも鮮明に覚えている。
「え!?なんで??」と
納得するまで質問することができなかったのは
幼少期の私の能力不足だろう。
しかし一方で、
小学校高学年までサンタクロースの存在は心底信じ切っていた。
(両親の巧妙なトリックによって)
超常現象や特殊創造説、神の存在に全く無関心になったのは
もう少し先の話だ。
(ちなみにドーキンスは16歳でその域にたどり着いており、
後に『神は妄想である』という本を書いている)
話が脱線したが、
要は昔から世の中のことを
批判的、懐疑的な視点で見ていたと自負している。
▢ 批判的思考の重要性
持論だが、
世の中のことを批判的に思考できないと
新しいモノは生み出せない。
新しく、革新的なモノをゼロから生み出す人たちは、
これまでの常識や風潮、伝統を
批判的、懐疑的な視点で分析しているはずだ。
言い換えれば『世の中を変えてやりたい!』という
反骨心とも言える。
なぜそんなことが言えるのだろうか?
だって
『世の中を変えてやりたい!』という考えそのものが
現状の世の中を批判し疑っているではないか!
▢ 問題提起から議論へ
さらに批判的、懐疑的な思考からもたらされた意見は
問題提起になり、質の高い議論を引き起こす。
質の高い議論がなされていないアイデアは、
すぐ破棄した方がいい。
(それかもう一度見直す)
どうせ失敗するので。
アイデアを洗練させる為に必要な議論は、
その会議や話し合いの場で
批判的、懐疑的な意見を繰り出すことによって
発生するはずなのだ。
▢ 否定と批判の境界線
しかしこのような私の考え方が、
物事を良くない方に向かわせることも当然ある。
『すぐ否定する!』と嫌がられ、
よく場の空気を悪くする。
目上の人からは、
『否定から入るな!!』と
お叱りをいただくことも多々ある。
(その度に、
『否定から入るな!!』と“否定”されている
パラドックスな状況を感じているw)
中には悪意のある否定もあったかもしれないが、
違った価値観を提供し、
問題提起しているつもりのコトの方が
圧倒的に多いはずだ。
『ん?ちょっと待って!
その考え方は僕と違うから
今から議論しない?』と。
建設的な批判と悪意ある否定を区別するのは
そんなにも難しいことだろうか?
おそらく難しい。
特に日本では。
(私に海外経験はいっさいないが)
だからこそドーキンスが言うように、
子供の頃から批判的、懐疑的な思考を
教育すべきではないだろうか?
もっと建設的な批判が飛び交う
議論を推奨しよう!
▢ まとめ
人の価値観は人それぞれで面白い。
私はそれぞれの価値観をぶつけ合うことの
楽しさと価値を知ってしまった。
同じ価値観、考え方をした人たちのみの集まりで
褒め合い、認め合い、慰め合いの“会”に
何かの間違いで参加してしまった時には、
一刻も早く帰りたいと心の中で懇願している。
(決して場を荒らさないようにしながら)
批判的視点と建設的な懐疑心を育むためには
いったい何が必要なのだろうか?
合言葉は、
“Shall we GIRON ??”
記事:BLDA会長 神尾健太 ➡ About Me
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